鍼灸による下痢の治療効果とエビデンス

下痢は誰にとっても身近な消化器症状であり、原因や種類によって対処法が異なります。本記事では、特に原因のない下痢および感染性下痢に対する鍼灸(鍼治療・灸治療・電気鍼)の効果について、科学的根拠(エビデンス)に基づいて包括的に解説します。

目次

下痢の分類と一般的な治療法

機能性下痢とは、感染症や炎症性腸疾患といった明確な器質的原因がないにも関わらず慢性的な下痢が続く状態を指します。過敏性腸症候群(IBS)のうち腹痛を伴わず下痢が主症状のものは機能性下痢に分類されます。原因としてはストレスや自律神経の乱れ、腸の過敏な反応(内臓知覚過敏)などが挙げられます。例えば研究により、機能性下痢の患者では交感神経が過剰に働いている兆候が示され、自律神経のアンバランスが下痢に関与する可能性が報告されています(1)。また、腸内環境(腸内フローラ)の乱れや軽度の炎症も機能性下痢の背景にあると指摘されています。

感染性下痢はウイルス・細菌・寄生虫など腸への病原体感染によって起こる下痢です。例えば、ノロウイルスやロタウイルスによる急性胃腸炎、細菌性の食中毒(サルモネラ、病原性大腸菌など)、赤痢アメーバなどが原因になります。感染性下痢では下痢に加えて嘔吐や発熱、腹痛を伴うことが多く、感染症の種類により潜伏期間は異なりますが、通常は数日から1週間程度で症状が治まります。

一般的な対策として、機能性下痢の場合は生活習慣の見直しやストレス管理が重要です。食事面では刺激物や脂肪分の多い食事を控え、食物繊維や発酵食品など腸内環境を整える食事(いわゆる「腸活」)が推奨されます。必要に応じて整腸剤や下痢止め、過敏性腸症候群の薬(消化管運動調整薬、抗不安薬など)が用いられます。

感染性下痢の場合はまず十分な水分・電解質補給(経口補水)が最優先です。食事療法としては消化に優しい食事を摂り、症状が強い間は乳製品や食物繊維の多い食品を避けることが一般的です。細菌性下痢の種類によっては抗生物質が使われることもあります。いずれの場合も、急激な下痢で脱水症状が懸念されるときは医療機関での点滴など適切な処置が必要です。感染性下痢の場合は、下痢止めは推奨されていません。

鍼灸が下痢に与える生理学的作用

東洋医学の観点では、下痢は「脾胃(消化機能)の失調」や「湿邪」の存在などで説明され、鍼灸治療は経穴(ツボ)を刺激することで体内のバランスを調整し、消化器系の機能回復を図ります。現代の生理学的な視点から見ると、鍼灸刺激は自律神経や消化管神経系に作用し、腸の蠕動運動や分泌を調節すると考えられています。

自律神経には消化管の動きを活発にする副交感神経(いわゆる「リラックス時」の神経)と、消化管の動きを抑制する交感神経(「ストレス時」の神経)があります。ストレス下では交感神経が優位になりがちですが、これが腸の機能に影響して下痢や便秘を引き起こすことがあります。鍼灸刺激にはこの自律神経のバランスを整える効果があり、研究により鍼治療が交感神経の過剰な活動を抑制し、副交感神経の働きを高めることが示唆されています(2)。例えば、心拍変動の解析を用いた複数の研究をまとめた報告では、実際の鍼刺激は偽の鍼刺激(プラセボ)よりも副交感神経トーンを高めるという結果が得られました(2)。自律神経が整うことで腸の蠕動運動も正常化し、下痢の場合は過剰な腸運動を鎮め、逆に腸の動きが鈍い場合は活発にする方向に働くと考えられています。

実際、動物実験では特定のツボへの鍼刺激が消化管の運動に直接影響を与えることが確認されています。代表的な胃腸症状の特効穴である足三里(あしさんり、ST36)への電気鍼刺激は、大腸の運動機能を促進する作用が報告されています。ラットを用いた研究では、足三里への電気鍼により大腸の蠕動(ぜんどう)が促進され、腸内容物の移送速度が増加したとされています(3)。この効果は骨盤神経を介した副交感神経経路によるもので、鍼刺激が腸管神経系に反射的に作用した結果と考えられます(3)。一方で、必要に応じて腸の過剰な緊張を抑える作用も指摘されており、鍼灸は双方向に腸の機能を調節的に整えるのが特徴です。また、鍼刺激によって脳内の視床下部や迷走神経を介する内臓調節中枢が活性化され、消化管ホルモンや脳腸ペプチド(セロトニンなど)の分泌バランスが変化することも分かってきています。

主要な経穴(ツボ)で見ると、下痢改善によく用いられるポイントには以下のようなものがあります:

  • 天枢(てんすう、ST25):おへその左右外側に位置し、大腸の募穴(ぼけつ:臓腑のエネルギーが集まるツボ)です。古来より下痢や便秘など大腸の不調全般に頻用され、腸の機能を調節する作用があります。
  • 足三里(あしさんり、ST36):膝下の外側にある有名なツボで、胃腸の機能全般を高める作用があります。胃腸虚弱の改善や免疫増強にも使われ、「お腹の調子を整える万能穴」とされています。
  • 上巨虚(じょうこきょ、ST37):足三里のやや下方にあり、大腸経の下合穴(大腸に対応する下肢のツボ)です。特に大腸の働きを整え、下痢の症状に効果的とされます。
  • 中脘(ちゅうかん、CV12):みぞおちとへその中間にある経穴で、胃の不調や消化不良に効く胃の募穴です。消化液の分泌調整や胃腸の蠕動運動正常化を助けます。
  • 関元(かんげん、CV4):下腹部(へそから指4本下)にある経穴で、消化管のみならず全身の気力を補う要穴です。お腹を温めて冷えを除き、慢性下痢などに効果があるとされます。
  • 三陰交(さんいんこう、SP6):内くるぶしの上方にあり、脾経・肝経・腎経が交わる重要なツボです。下腹部の血流を良くし、腹痛や下痢など下腹部の症状緩和に用いられます。

以上のようなツボは臨床研究でも頻繁に使用されており、あるレビューでは天枢、上巨虚、足三里、三陰交、百会(頭頂のGV20)などがIBSによる下痢症状の治療で特によく選択されていたと報告されています(4)。鍼や灸によってこれらの経穴を刺激することで、自律神経系・消化管神経系・免疫系に作用し、腸の運動と分泌のバランスを取る効果が期待できます。

機能性下痢に対する鍼灸治療のエビデンス

機能性下痢(過敏性腸症候群を含む)の患者に対する鍼灸療法の効果については、近年多数の臨床研究が行われています。特に中国を中心にランダム化比較試験(RCT)やメタアナリシスが蓄積されており、その多くが鍼灸の有効性を示唆しています。

例えば、過敏性腸症候群(IBS、下痢型)患者を対象にした無作為化比較試験では、鍼治療を通常の治療に追加した群で症状の改善がプラセボ対照群より有意に大きかったとの結果が報告されています。ある多施設RCTでは、鍼治療を4週間継続した群は通常治療のみの群と比べ、IBS症状の重症度スコア(IBS-SSS)の低下幅が著明に大きく、腹痛や生活の質(QOL)も改善したとされています(5)。このことから、特に西洋医学的治療で効果不十分な難治性IBSにおいて、補完療法としての鍼灸が症状緩和に寄与する可能性があります。

複数のRCTを統合して効果を評価したメタアナリシスの結果も注目すべきです。2022年に発表された系統的レビューでは、IBS患者に対する鍼灸および灸治療の臨床データ(RCT 31件、延べ8000人以上)を解析し、「鍼灸治療はIBSの症状重症度、腹痛の頻度、生活の質において有意な改善効果がある」と結論付けられました(5)。下痢の回数や便の性状(例えば Bristolスケールでの評価)も多くの試験で改善が報告されており、全般的に鍼灸群は無治療群や西洋薬使用群よりも良好な結果を示しています(5)。

一方で、偽鍼(シャム鍼)を対照とした試験からは異なる視点も得られています。欧米で行われた質の高い試験の中には、本物の鍼と偽の鍼で症状改善に差が見られなかったものもあります。この点を踏まえた2019年のレビューでは、「プラセボ対照下では鍼治療の有効性は統計的に有意といえないが、西洋薬との比較では鍼治療の方が有利な結果を示す」と報告されています(6)。つまり、鍼そのものの特異的効果は限定的でプラセボ効果や偽鍼の刺激であってもツボへの刺激の寄与が大きい可能性も否定できませんが、それでも薬物療法より副作用が少なく総合的な患者満足度が高いことから、治療オプションとして有用であると示唆されています(6)。実際、IBS治療薬は効果が限局的だったり副作用の問題があったりするため、鍼灸は安全性を考慮した上で長期管理に取り入れられるケースもあります。

鍼灸の中でも電気鍼(EA)や温灸の併用効果についても検討されています。電気鍼とは、鍼を刺入したツボに微弱な電流を流して刺激を持続・増強する方法で、通常の手技鍼より強めの刺激が得られます。一部の研究では、IBSの下痢症状に対して電気鍼は薬物療法と同等の効果を示し、さらに抑うつ・不安など付随する症状の改善にも寄与したとの報告があります(7)。また、鍼と灸の比較検討では、電気鍼と温灸のいずれもIBS症状を有意に改善し、腸内のセロトニンやその受容体(5-HT_3、5-HT_4受容体)の異常発現を正常化する作用が認められました(7)。セロトニンは腸の運動や分泌を調節する神経伝達物質であり、IBS患者ではセロトニン経路の異常が示唆されていますが、鍼灸がこの経路に作用する可能性を示した興味深い結果です。

さらに、灸治療単独の効果についてもエビデンスがあります。お腹を温める温灸(お灸)療法は、特に冷えを伴う慢性下痢やIBSの体質改善に昔から使われてきましたが、近年その有効性を検証する臨床試験も行われています。例えば、下痢型IBS患者に対しお灸を数週間継続したRCTでは、便の形状(Bristolスケール)や1日の下痢回数、便意切迫感などが偽治療群に比べ有意に改善し、その効果は治療終了後も持続したと報告されています。メタアナリシスでも、お灸と薬物療法の併用は薬物療法のみより症状の総合改善率が高かったとされ、7つのRCTの統合解析ではお灸併用群でIBS-D症状の有意な軽減が確認されています(12)。ただし試験間のデータばらつきもあり、証拠の質としては「中等度の確からしさ」と評価されています(12)。総じて、機能性下痢・IBSに対する鍼灸は即効性というより継続による体質改善効果が期待できる治療法と言えるでしょう。

感染性下痢に対する鍼灸治療のエビデンス

急性の感染性下痢(いわゆる胃腸炎や食中毒)に対しては、水分補給や安静などの支持療法が基本ですが、症状緩和や回復促進を目的に鍼灸が補助的に用いられることもあります。感染性下痢への鍼灸適用に関する西洋医学的な研究報告は機能性下痢ほど多くありませんが、中国を中心にいくつか興味深いデータがあります。

代表的な例として、細菌性赤痢(バシラス性赤痢)に対する鍼治療の研究が挙げられます。細菌性赤痢は細菌感染による激しい下痢と発熱を特徴とする疾患ですが、中国で行われた臨床試験では鍼治療のみで多数の赤痢患者を治療し、その有効性を検証しています。ある報告では、急性期の赤痢患者645例に対し1日1~3回の鍼治療を施した結果、90%以上の患者が10日以内に臨床的に治癒し(症状消失および便培養の陰性化)、これは対照となる抗生物質治療群と同等の成績でした(8)。この研究は1970~80年代に行われたものですが、その後2003年に世界保健機関(WHO)がまとめた鍼灸の臨床報告分析でも「急性細菌性赤痢に対する鍼治療は従来の医療と同程度に有効」と紹介されており(8)、感染性下痢への鍼灸の可能性を示すエビデンスとして引用されています。

ウイルス性の下痢に関しても、鍼灸や関連する東洋医学的手法の有用性が検討されています。例えば乳幼児のロタウイルス胃腸炎(乳幼児に多いウイルス性下痢症)に対し、経穴への漢方湿布(薬草をツボに貼付する「穴位貼薬」療法)を併用したグループは、通常治療のみのグループよりも下痢の持続期間が短縮し、治癒率が向上したとの報告があります(9)。複数の臨床観察を総括したレビューでも、「経穴刺激(貼薬療法など)は小児のロタウイルス性下痢の臨床治癒率を高め、下痢期間を短縮する傾向がある」とまとめられています(9)。これは直接の鍼刺激ではありませんが、ツボを刺激する代替手段として腸の免疫機能を高めた結果と考えられます。

感染症による下痢では、病原体に対する免疫反応や炎症反応が症状に大きく影響します。鍼灸にはこれら免疫機能を調整する作用も報告されています。いくつかの研究で、鍼刺激後に体内のサイトカイン(免疫伝達物質)のプロファイルが変化し、炎症を促進する物質(例えばインターロイキン6やTNF-αなど)が減少、一方で抗炎症作用を持つインターロイキン10(IL-10)の産生が増加するといった反応が観察されています(10)。また、慢性の消化器炎症モデルにおいて鍼灸がIgAなど粘膜免疫を高めることや、腸管のバリア機能を修復する作用も示唆されています。お灸による温熱刺激も含めた鍼灸総合治療で腸の粘膜損傷が軽減し、腸内細菌叢(マイクロバイオータ)の乱れを改善したとの動物実験報告もあります(11)。このように、鍼灸は感染性の下痢に対して直接病原体を排除するわけではありませんが、生体の免疫・防御システムを整えることで結果的に症状緩和や早期回復を助ける可能性があります。

もっとも、急性の感染性下痢の場合は重篤化すると脱水や電解質異常で命に関わることもあるため、鍼灸はあくまで補助療法です。例えば激しい下痢や嘔吐で水分が取れないようなケースでは、まず点滴などによる補正が優先されます。その上で吐き気や腹痛の軽減目的に内関(手首のツボ)への刺激を行ったり、下痢症状に対処するため足三里や天枢への鍼を併用したりする、といった使い方が現実的でしょう。実際に中国の病院では、点滴治療を受けながらベッドサイドで鍼灸を受けるといった統合医療的な取り組みも行われています。急性期を乗り切った後の回復期に、胃腸機能の立て直しや慢性的な下痢後症候群のケアとして鍼灸を活用するのも有効と考えられます。セルフケアの一環として、ツボ押しをしてみるなどが低リスクでよいかもしれません。将来は病院内で鍼灸ができるところなどが増えるとよいですね。

鍼灸の具体的な治療プロトコル

機能性下痢や感染性下痢に対して、鍼灸院や医療機関で実際にどのような施術が行われるのか、その一例をご紹介します。患者さんの体質や症状に合わせて調整されますが、一般的なプロトコルは次のようになります。

  • 施術頻度と期間:慢性の機能性下痢(IBSなど)の場合、週に1~2回程度の施術を継続して行うケースが多いです。効果が現れるまでに個人差がありますが、少なくとも4~6週間(計8~12回程度)は継続するよう推奨されます。研究でも4週間以上の継続治療で有意な症状改善が報告されています(5)。症状が安定した後は頻度を徐々に減らしつつ、メンテナンス目的で月1回程度受ける方もいます。急性の感染性下痢では短期間に集中して施術することもあり、症状に応じて毎日~隔日で数回施術し、改善が見られたら終了とします。
  • 経穴の選択:前述したような**主要なツボ(天枢、足三里、上巨虚、中脘、関元、三陰交など)**が基本となります。機能性下痢では腹部の調整として天枢・中脘・関元、下肢の調整点として足三里・上巨虚・三陰交がよく使われます(4)。腹痛や張りが強い場合は痛みを和らげるツボ(例えば手の合谷や足の太衝など)を加えることもあります。ストレスによる自律神経失調が疑われるときは百会(頭頂)や内関(手首内側)を使い、全身のリラクゼーションを図ります。感染性下痢の場合、症状が激しい急性期には腹部のツボは刺激を弱めにして、手足の末端の経穴(合谷、足三里、曲池など)で全身調整をすることもあります。
  • 鍼の種類と手技:通常のステンレス製の使い捨て鍼を刺入する毫鍼(ごうしん)が基本です。下痢のような症状には比較的浅めの刺鍼で経穴を刺激し、場合によっては「捻転(ねんてん)操作」といって鍼をひねって腸に響くような感覚(得気:とっき)を引き出すこともあります。刺激量は患者さんの体力や症状に応じて調整します。症状が慢性的・虚弱傾向なら補法(穏やかな刺激)で施術し、急性で実証傾向(熱や痛みが強い)なら瀉法(やや強めの刺激)で腸の余分な動きを鎮める、といった使い分けをします。
  • 電気鍼の活用:症状が頑固な場合や痛みが強い場合には、刺した鍼に低周波の電気刺激を加える電気鍼治療(低周波鍼通電療法)を行うことがあります。例えば、腹部の天枢と足三里に鍼をし、それぞれに電極を繋いでリズミカルな電流刺激を与えることで、自律神経系への作用を安定して持続させる狙いがあります。電気鍼は手技による刺激よりも深部まで影響を与えやすく、下痢の回数減少や腹痛緩和に有効とする報告があります(7)。一方で電気刺激の感覚に慣れない患者さんもいるため、希望や状態に応じて選択されます。
  • 灸の活用:冷えが強い人や慢性化した下痢にはお灸も積極的に用います。へその下の関元や神闕(しんけつ、へそ:直接灸は避け回りに間接灸)、足三里、三陰交などに温灸を据えることで、腹部を温めて消化機能を底上げします。とくに「五行穴」と呼ばれる経穴の組み合わせで脾胃を補う施灸法など、伝統的な手法も取り入れられます。慢性下痢のIBS患者を対象に、温灸による治療を行った臨床試験では、灸治療の継続により下痢の頻度や便意の緊急度が有意に改善し、その効果が治療後も維持されたと報告されています(12)。灸は刺激がマイルドでリラックス効果もあるため、自律神経を整える一助にもなります。ただし熱さを感じにくい高齢者や皮膚の弱い人では低温火傷に注意が必要です。

以上は一般的な一例ですが、実際の臨床では患者さん一人ひとりの状態に合わせて施術内容がカスタマイズされます。下痢の原因がストレス主体なのか、食事や生活リズムなのか、あるいは体質的な虚弱なのかによって、選ぶ経穴や刺激方法が調整されるのです。適切なツボを適切な方法で刺激することで、胃腸が本来持つ調節機能を引き出し、全身のバランスを整える――これが鍼灸による下痢治療の基本的な考え方です。

安全性と注意点

鍼灸治療は適切に行われれば非常に安全性の高い治療法ですが、下痢の治療に用いる際に留意すべき点もあります。

まず、鍼灸そのものの副作用リスクとしては局所の軽い痛みや内出血、施術中の一時的なめまい(鍼暈症)などが挙げられます。特に腹部のツボは刺激に敏感な方もいるため、無理のない刺激量で行うことが重要です。感染症リスクに関しては、現在はディスポーザブル(使い捨て)鍼が一般的であり、適切な消毒を行えば感染症の心配は極めて低いとされています(13)。実際、鍼治療による重大な感染症の報告は非常に稀です。お灸では、据えた後に皮膚が赤くなる程度の軽微な火傷が起こることがありますが、施灸法を工夫したり灸痕が残らないタイプの施術を選べば防ぐことが可能です。

次に、下痢そのものの状態に関する注意です。激しい感染性下痢で高熱や脱水がある場合、前述のようにまず西洋医学的な救急対応が優先されます。こうしたケースでは無理に鍼灸を行わず、症状が落ち着いてから体力回復の目的で施術する方が安全でしょう。また、原因不明の血便や激痛を伴う下痢の場合、潰瘍性大腸炎やクローン病などの炎症性腸疾患、大腸がんなどの可能性もあり、まず専門医による検査診断が必要です。鍼灸はあくまで確定診断のもとで補助的に行うべきであり、原因のはっきりしない重篤な症状に対して安易に行うものではありません。

妊娠中の下痢に対して鍼灸を検討する場合も注意が必要です。一般に妊娠中期以降であれば安産のための鍼灸も行われますが、腹部への強い刺激や特定のツボ(下腹部や腰部の一部の経穴)は避けるのが原則です。妊婦の下痢は食中毒など以外に子宮収縮に伴う腸管蠕動の変化も考えられるため、産科医と相談しながら慎重に対応します。

総合的に見れば、鍼灸は非常に副作用の少ない療法であり、適切な知識を持った施術者のもとで受ける限り安全性は高いと言えます(13)。特に薬剤を使いたくない妊娠中や高齢者の慢性下痢などでは、鍼灸のメリットが大きいでしょう。ただし上述のように緊急性の高い症状や重篤な原因疾患が潜む場合は、必ず医療機関での診断と併行して行うこと、自己判断で症状を放置しないことが大切です。鍼灸師と西洋医学の医師が連携しながら治療計画を立てるのが理想です。


まとめ:機能性下痢(過敏性腸症候群など)および感染性下痢に対する鍼灸治療は、自律神経を調整し腸の蠕動運動を正常化することで下痢症状を改善しうることが、様々な研究で示唆されています。高品質なエビデンスとして、鍼灸がIBS患者の下痢や腹痛を和らげ生活の質を向上させたとの報告や、急性の細菌性下痢で症状緩和に寄与したとのデータが存在します。一方でプラセボ効果の関与を示唆する意見もあり、鍼灸単独で劇的に治る万能薬というわけではありません。しかし、副作用が少なく体全体の調子を整えることで根本的な体質改善につなげられる点は大きな利点です。下痢の原因がストレス性のものか感染症かを見極めた上で、西洋医学の治療と鍼灸を上手に組み合わせることで、症状の早期改善と再発予防が期待できるでしょう。

参考文献

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  2. Hamvas S, et al. Acupuncture increases parasympathetic tone, modulating heart rate variability – Systematic review and meta-analysis. Complement Ther Med. 2023;72:102905. – (鍼治療が副交感神経活動を優位にし、自律神経バランスを改善することを示したメタ分析)
  3. Liu Z, et al. Electroacupuncture at ST36 stimulates distal colonic motility via parasympathetic pathways in rats. Dig Dis Sci. 2008;53(3):689-693. – (ラット実験で足三里への電気鍼刺激が骨盤副交感神経を介し大腸の運動を促進したことを報告)
  4. Zhu X, et al. Acupuncture for diarrhoea-predominant irritable bowel syndrome: the most frequently used acupoints and combinations. J Neurogastroenterol Motil. 2014;20(3):342-352. – (下痢型IBSに対する鍼治療で頻用される経穴はST25, ST37, ST36, SP6, GV20などであると報告)
  5. Zhou X, et al. Clinical evidence of acupuncture and moxibustion for irritable bowel syndrome: A systematic review and meta-analysis of randomized controlled trials. Front Public Health. 2022;10:1022145. – (IBS患者延べ8672例を含む31試験のメタ分析。鍼灸は症状重症度、腹痛、QOLを有意に改善)
  6. Chu J, et al. Comparison between the effects of acupuncture relative to sham acupuncture and conventional therapy for IBS: A systematic review. J Gastroenterol Hepatol. 2020;35(3):327-334. – (偽鍼対照では有意差なし。一方で西洋薬との比較では鍼が有意に症状改善との結果)
  7. Tang X, et al. Electroacupuncture versus moxibustion for diarrhea-predominant IBS: effects on symptoms and 5-HT pathway. Evid Based Complement Alternat Med. 2015;2015:361786. – (下痢型IBS患者に電気鍼と温灸を比較。両者とも症状改善効果あり、腸内セロトニンおよび受容体発現を正常化)
  8. 世界保健機関(WHO) 「鍼灸の臨床試験に関する報告書のレビューと分析」 2003年 – (645例の急性細菌性赤痢に対する鍼治療で約90%が10日以内に治癒との中国報告を引用し、鍼の有効性を認める)
  9. Liu J, et al. Acupoint application for rotavirus diarrhea in infants and children: a systematic review. World J Pediatr. 2021;17(1):60-66. – (小児ロタウイルス性下痢症において経穴貼付療法を併用すると臨床治癒率が向上し、下痢期間が短縮することを示唆)
  10. Kim TH, et al. Does acupuncture modulate immune system? The evidence of anti-inflammatory responses and modulation of immune cells. Chin J Integr Med. 2017;23(10):818-825. – (鍼治療が炎症性サイトカイン(IL-1β, IL-6, TNF-αなど)の減少と抗炎症サイトカイン(IL-10など)の増加をもたらすことを示したレビュー)
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  12. Sun J, et al. Moxibustion for diarrhea-predominant irritable bowel syndrome: a meta-analysis of 7 randomized controlled trials. J Altern Complement Med. 2016;22(8):661-672. – (568例を対象としたメタ分析。IBS-D患者で薬物療法に対するお灸併用の有効性を支持する結果)
  13. Mayo ClinicAcupuncture: Why it’s done, benefits and risks. (Accessed 2023) – (単回使用鍼の普及により感染症リスクは極めて低く、一般的な副作用は刺入部の軽い痛みや出血程度であると解説)
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