PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、過去に体験した強烈なストレス出来事(いわゆるトラウマ)が原因で、その後も心と体にさまざまな影響(不調)を及ぼす障害です。事故や災害、暴力や虐待、戦争体験など、命の危険を感じるような出来事が引き金になることが多くあります
トラウマとなる出来事を経験すると、時間が経っても当時の恐怖や苦痛が消えずに残り続けることがあります。その結果、日常生活に支障をきたすほど強いストレス反応が現れる状態がPTSDです
PTSDの症状と日常生活での困りごと
PTSDになると、日常生活の中で次のようなつらい症状に悩まされることがあります。例えば、以下のような経験に心当たりはないでしょうか。
- 「夜になると悪夢を見て飛び起きることがある」
- 「ふとした瞬間に恐怖の記憶がよみがえり、息が苦しくなる」
- 「ちょっとした音や光に過剰に驚いてしまう」
- 「人と会うのが怖くなり、家に閉じこもりがちになる」
- 「楽しかったはずのことが、今は何も感じられない」
こうした症状は、PTSDの方が日常で実際によく抱える困難です。もし思い当たることがあれば、あなたもPTSDによる症状かもしれません。
PTSDの診断基準(DSM-5)に基づく症状
PTSDでは様々な症状が現れますが、アメリカ精神医学会の診断基準であるDSM-5(ディーエスエム・ファイブ)では、これらの症状を大きく4つのカテゴリーに分類しています
それぞれの症状群をわかりやすく説明します。
- 再体験症状(さいたいけんしょうじょう):過去の出来事をまるで再び体験しているかのように感じてしまう症状です。突然、当時の記憶が鮮明によみがえるフラッシュバックに襲われたり、トラウマの悪夢を何度も見る(寝ている間に追体験する)ことがあります。急に当時の恐怖を思い出し、強い不安や動悸(どうき)に苦しむことも含まれます。
- 回避症状(かいひしょうじょう):トラウマ体験を思い出させるような状況や刺激を避けようとする症状です。例えば、事故や暴力などの出来事に関連する場所・人・話題を避ける、当時の記憶がよみがえりそうなテレビ番組やニュースを見ないようにする、といった行動があります。思い出すこと自体がつらいため、無意識のうちに記憶を閉じ込めようとするのです。
- 過覚醒症状(かかくせいしょうじょう):常に神経が高ぶり、警戒しすぎている状態が続く症状です。わずかな物音や光にも過剰に驚いてしまう(過剰な驚愕反応)、夜眠ろうとしてもうまく眠れない(不眠)、イライラして些細なことで怒ってしまうなど、精神が休まらない状態が続きます。リラックスしようとしても体がこわばり、いつも緊張しているため疲れてしまいます。
- 認知と気分の変化(ネガティブな認知・気分の変化):考え方や感情面での大きな変化が起こります。例えば、自分や世界に対する否定的な考えにとらわれてしまう(「自分は無力だ」「世の中は危険だ」という思い込みが強くなる)ことがあります。また、恐怖や不安など否定的な感情が消えずに続いたり、好きだった趣味にも興味がわかない、周りの人に対して心が閉ざされたように感じる(疎遠感)といった状態も見られます。喜びや愛情といったポジティブな感情が湧かず、感情が麻痺してしまったかのようになることも特徴です。
これらの症状がトラウマ体験後1ヶ月以上続き、日常生活に支障をきたす場合にPTSDと診断されます
症状は人それぞれですが、DSM-5では以上のような症状群がPTSDの特徴として定義されています
もし「自分にも当てはまるかも…」と感じたら、専門家による評価を受けてみることをおすすめします。
PTSDの病態と神経生理学的メカニズム
心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、極度のストレスに対する生理的な応答系の異常によって特徴づけられます。
まず、自律神経系では交感神経の過剰な亢進と副交感神経の機能低下のバランスの乱れが認められます。PTSD患者では安静時から心拍数や血圧が高めで、心拍変動(HRV)の低下など交感神経優位の状態が持続しやすいことが報告されています。また、副交感神経(迷走神経)トーンの低下により「戦うか逃げるか」反応からの回復が困難になり、過覚醒や過度の警戒心などの症状につながります【1】。
ストレス応答を司る視床下部-下垂体-副腎皮質軸(HPA軸)にも顕著な変調が生じます。PTSDでは慢性的なストレス刺激により視床下部からの放出ホルモン(CRH)が高まり、下垂体からの副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)分泌や副腎からのコルチゾール分泌に異常なパターンがみられます。急性期にはコルチゾール過剰分泌が起こり得ますが、慢性期にはコルチゾールの日内リズムの平坦化や、負のフィードバック機構の過敏化による基礎コルチゾール低値など複雑な変化が報告されています。これはストレス応答系が過剰に活性化した末に調節不全に陥った状態と考えられ、PTSDの病態生理学的なマーカーの一つとされています【1】。こうしたHPA軸の過活動または機能破綻は、交感神経系の過緊張と相まって長期的には心血管系や免疫系にも悪影響を及ぼすことが指摘されています。
さらに、PTSDでは脳内の恐怖・情動ネットワークの機能異常が重要な役割を果たします。扁桃体は恐怖や不安の情動に関与する脳部位ですが、PTSD患者では扁桃体が過敏な反応性を示し、外傷関連の刺激に対して過剰に活性化しやすいことが知られています。これに対し、本来扁桃体の過剰な活動を抑制し情動をコントロールする役割をもつ前頭前野(とくに腹内側前頭前野や前帯状皮質)は、PTSDでは低下した活動しか示さず、扁桃体へのトップダウン制御が不十分になります【2】。その結果、恐怖記憶の抑制や安全な状況で「大丈夫だ」と判断する機能が弱まり、些細な刺激でも極度の恐怖反応(驚愕反応やフラッシュバック)が引き起こされるのです。また海馬(記憶と空間認知をつかさどる領域)は、慢性的ストレスによる萎縮が指摘されており、PTSD患者では平均して健常者より明らかに体積が縮小しているとのメタ分析結果があります【3】。海馬の萎縮と機能低下は、文脈に応じた記憶の抑制や新しい安全な記憶の形成を妨げ、過去の外傷記憶が現在の状況と切り離せず繰り返し想起される(一種の「現在化」)要因と考えられています。
要約すると、PTSDの病態生理は交感神経系の過駆動と副交感神経系の抑制、HPA軸の異常なストレスホルモン応答、そして扁桃体-前頭前野-海馬を含む脳内恐怖回路の機能不全が重なり合った複合的なものです【1】【2】【3】。これらが過覚醒、再体験、回避、認知気分の変調といったPTSD症状群の基盤にあると考えられています。
2. PTSDの標準治療
現在、PTSDに対する標準治療としては心理療法と薬物療法の二本柱があります。心理療法では、とりわけトラウマ焦点化療法と総称されるアプローチが第一選択とされています。具体的には持続エクスポージャー療法(PE)や認知処理療法(CPT)、そして眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR)などが国際的なガイドラインで強く推奨されています【4】。これらは患者にトラウマ記憶を安全な環境で想起・再体験させ、徐々に恐怖反応を減弱させる暴露療法や、トラウマに伴う認知の歪みに働きかけて修正する認知行動療法の一種です。
多くの研究で有効性が実証されており、約半数以上の患者で症状の臨床的改善が見られることが報告されています。しかし一方で、治療途中のドロップアウト率がしばしば20~30%にのぼりますが、これはトラウマ内容に向き合うこと自体の苦痛から治療継続が困難になる例も多く、実臨床では「効果が高いが受け入れられにくい」ジレンマも指摘されています。また心理療法のみでは症状が十分軽減しないケースや、トラウマに直接触れる治療を患者が拒否する場合もあり、そうした場合には他の治療法の併用が検討されます。
薬物療法では選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)が第一選択薬となります。実際にセルトラリンなど一部のSSRIはPTSD治療薬として承認されており、不安や抑うつの軽減に一定の効果を示します。しかし、薬物療法単独の効果量は他の病気に比べやや小さいとする報告もあり、SSRIを含む抗うつ薬で有効反応を示す患者は全体の約50~60%に留まり、寛解(症状消失)に至る割合は20~30%以下と推計されており【5】、相当数の患者が薬物抵抗性の症状を残します。さらにSSRIの副作用(消化器症状、性機能低下、不眠、賦活症候群など)や内服アドヒアランスの問題もあり、現実には薬のみで十分な治療効果が得られない場合が少なくありません。
睡眠障害や悪夢に対しては高血圧治療薬のプラゾシンが併用されることがありますが、最近の大規模試験で効果が否定されるなど議論もあります。抗不安薬のベンゾジアゼピン系は即効性がありますが、PTSDへの有効性は乏しく依存リスクもあるためガイドラインでは推奨されません。
心理療法は効果が高い一方、一部患者には適応しづらく、治療中の一時的な不安増大も課題とされています。薬物療法は症状全般を緩和するサポートとなりますが、治療抵抗例や副作用の問題があります。そのため、現場ではこれらを組み合わせた統合的アプローチが取られることも多く、患者の状態に応じて柔軟に治療計画を調整する必要があります。こうした背景から、標準治療に加えて補完代替医療への関心も高まっており、瞑想やヨガ、生体フィードバックなどと並んで鍼灸治療も注目されるようになっています。
3. PTSDに対する鍼灸治療のエビデンスと作用機序
補完医療である鍼灸治療は、PTSD患者の自律神経系・内分泌系の調整や症状緩和に有用ではないかと考えられ、近年エビデンスが蓄積しつつあります。科学的研究により、鍼刺激が神経系に広範な調節作用(neuromodulation)を及ぼすことが明らかになってきました。
鍼を刺入すると皮膚・筋膜の感覚受容器が興奮し、その信号が脊髄後角から中枢神経へ伝達されます。結果として脳幹の迷走神経核や視床下部、自律神経中枢に作用し、交感神経活動を抑制し副交感神経を賦活する効果が生じます。例えば心拍数や血圧の低下、消化管蠕動運動の促進などリラックス時の生理反応が誘導されることが示されています。
特に耳介への鍼刺激は迷走神経の一分枝(耳介枝)を直接刺激できるため、脳幹を介した迷走神経反射が起こりやすく、心拍変動の増加(高HRV化)やストレス反応の抑制といった迷走神経刺激効果が報告されています【6】。これは鍼がまるでペースメーカーのように副交感神経系を励起し、暴走しがちな交感神経ブレーキを取り戻させるイメージです。
鍼灸はまた、HPA軸にも影響を与えてストレスホルモンの制御に寄与します。動物実験では、ストレス負荷前に経穴「足三里」(ST36)に電気鍼刺激を行うと、ストレス直後に通常みられる血中のACTHやコルチゾールの急激な上昇が有意に抑制されることが確認されています【6】。これは鍼刺激により視床下部から下垂体への刺激経路が調節され、過度の内分泌応答がブロックされるためと考えられます。また交感神経終末から放出されるノルアドレナリンや副腎髄質からのアドレナリンといったカテコールアミン系のストレスホルモンについても、鍼治療によって基礎レベルが低減したり、ストレス時の過剰分泌が和らぐ可能性が指摘されています。実際、慢性的ストレス負荷を受けたラットに対する電気鍼治療で、交感神経系の過活動の指標である神経ペプチドYの反応が減弱したとの報告もあります【6】。以上のように、鍼灸は自律神経系とストレスホルモン系の両面に鎮静的に作用し、PTSD患者でみられる過覚醒状態を生理学的に緩和すると考えられます。患者が「鍼を受けると落ち着く」と主観的に感じる場合、その背後では迷走神経反射を介した心身のリラクゼーション効果と、視床下部-下垂体-副腎系の過緊張緩和が起こっていると推測できます。
中枢神経レベルでも、鍼刺激が脳の機能ネットワークに影響を与えるエビデンスが蓄積しています。機能的MRI研究では、鍼治療中に辺縁系や前頭前野の活動変化が観察されることがあり、痛みや情動の制御に関与するデフォルトモードネットワークの調整など脳内可塑性を誘導する可能性が示唆されています。PTSDモデル動物の研究では、鍼刺激が海馬のBDNF(脳由来神経栄養因子)レベルを上昇させシナプス可塑性を改善する結果や、偏桃体の過敏性を抑制する神経化学的変化が報告されています。つまり、鍼灸は末梢からの刺激でありながら全身性の生理反応を誘発し、脳内のストレス関連ネットワークを再調整する効果が期待できるのです。これは迷走神経刺激装置やバイオフィードバック法が自律神経バランスを整えるのに似て、鍼という侵襲の少ない手段で身体の自己調節機構を引き出すものと捉えることができます。
こうした生理作用を背景に、実際のPTSD患者を対象とした臨床研究でも鍼灸治療の有効性が検証されてきました。ランダム化比較試験や系統的レビューの結果によれば、鍼治療はPTSDの核心症状を軽減し得るとのエビデンスが増えつつあります。あるメタアナリシスでは、複数の試験データを統合した結果、鍼治療群は対照群に比べて治療後のPTSD症状(再体験、過覚醒、回避の各症状群)スコアが有意に改善していたと報告されています【7】。またその効果は不安や抑うつ、睡眠の質など付随する症状面にも及び、さらに薬物療法より副作用が少ないという利点も示されています【7】。このレビューでは、鍼治療は偽鍼や待機リストと比較して中等度以上の効果量を示し、一部研究では標準のトラウマ焦点療法に匹敵する改善が得られた例もあったといいます。実際、先駆的なRCTの一つであるHollifieldらの試験(2007年)では、PTSD患者に対して鍼治療を12回実施した群が、認知行動療法群や待機対照群と比較して有意な症状改善を示し、その効果は治療終了3か月後も維持されました【8】。興味深いことに、この試験では鍼治療が認知行動療法にほぼ匹敵する有効性を持ちながら、治療離脱率が低く患者受容性が高いことが示されています(鍼群のドロップアウトはわずか5%程度でした)。また、米国退役軍人局で行われたEngelらのRCT(2014年)では、戦闘従事者のPTSD患者に週2回の鍼治療を4週間行う短期介入でも、プラセボ対照に比べて症状尺度が有意に改善し、不眠や痛みなど併存症状の軽減も報告されました【9】。これらの結果は、短期的にも鍼治療がPTSD症状緩和に寄与し得ることを示唆しています。
耳鍼(耳介への鍼)も含めたアプローチは大規模災害後の集団トラウマに対して現場で活用された例があり、その有効性が検証されています。たとえばある前向き研究では、大地震後に避難生活を送る被災者のPTSD症状に対し週1回の耳鍼を数週間施行したところ、悪夢や不安感、過覚醒などの症状スコアが有意に改善しました【10】。耳鍼は簡便で非侵襲的なため、災害派遣の簡易医療でも利用しやすく、「Battlefield Acupuncture」と称して戦場や救急現場で急性ストレス反応の緩和に用いる試みもなされています。以上のように、近年の臨床研究は「鍼灸はPTSDに対して有益な補完療法となり得る」ことを示す方向で概ね一致しており、エビデンスの質も徐々に向上しています。ただし、依然として研究規模が小さいものも多く、効果の持続期間や最適な治療デザインに関しては今後さらなる検証が必要です。現在得られている知見を踏まえ、具体的な鍼灸治療プロトコルとその症状別の狙いについて詳しく見ていきます。
4. PTSDの症状別の鍼灸プロトコル
PTSDは多面的な症状を呈するため、鍼灸治療でも症状クラスターに合わせた経穴選択と手技の工夫が重要です。ここでは代表的な症状ごとに、臨床で報告されているアプローチを整理します。
(1) 過覚醒・不安の軽減: 過覚醒(hyperarousal)症状として睡眠困難、イライラ、過剰警戒、驚きやすさなどが挙げられます。これらには交感神経活動の抑制と副交感神経の賦活を促すツボを用いて、自律神経のバランス調整を図る方針がとられます。具体的には、心悸亢進や不安感を鎮める内関(PC6)や神門(HT7)、前頭部の緊張を緩和し心を静める印堂(EX-HN3)、百会(GV20)などがよく用いられます。内関は迷走神経にも関連し心胸部の症状を落ち着かせる作用が、神門は「心の門」として古来より不安不眠に効くとされる経穴です。印堂や百会は頭部の経穴で、鍼や指圧で刺激するとリラックス効果が高いことが経験的に知られています。耳鍼では耳の神門ポイント(耳介の三角窩中央)は自律神経を調整し鎮静をもたらす主要点です。加えて耳の交感神経点(耳輪脚付近)も組み合わせ、自律神経の過緊張を緩和します。刺鍼の手技としては、強い刺激よりも穏やかな補法的刺激(経穴に軽い刺激を加えて心地よい感覚を誘発する)が適しています。過覚醒が強い患者では鍼刺激への感受性も高まりやすいため、刺激量を調節しつつ呼吸法の指導などリラクゼーションを併用すると効果的です。治療後は全身の緊張が解け、患者から「体が軽くなった」「安心感が出た」といった主観的報告が聞かれることも多いです。
(2) フラッシュバック・悪夢の軽減: 外傷体験のフラッシュバックや悪夢などの再体験症状には、扁桃体の過活動を鎮め恐怖記憶のトリガー反応を抑制することが目標となります。東洋医学的には心神の不安定(心神不寧)や驚恐の症状とみなし、心経や督脈の経穴を中心に落ち着かせるアプローチをとります。代表的な経穴は心兪(BL15)や巨闕(CV14)で、これらは心理的ストレスで乱れた心(しん)の働きを整える作用があるとされます。心兪は背部兪穴で心臓の機能だけでなく精神安定にも用いられ、巨闕は心の募穴で不安感や動悸を鎮めます。加えて、安眠効果の高い安眠(耳後部の奇穴)や、頭部の四神聡(EX-HN1, 百会周囲の4点)を用いて頭にこびりついた記憶の過活動を和らげることもあります。耳鍼では、扁桃体に対応するとされるポイント(耳輪の深部に相当)を刺激する特殊なプロトコルも報告されていますが、標準化はまだこれからです。一般には前述の耳の神門や交感など鎮静系の耳穴を併用する形で対応します。フラッシュバックはストレス閾値が下がっている就寝前やリラックス時に起こりやすいため、夕方〜夜にかけての治療で鎮静効果を高め、日中の診療では灸(お灸)による穏やかな温熱刺激で神経系を落ち着かせるといった工夫も考えられます。例えば三陰交(SP6)や関元(CV4)に温灸を行うと深部体温が上がりリラックス反応が誘導されるため、夜間の悪夢を減らすのに有用との臨床報告もあります。
(3) 睡眠障害の改善: PTSD患者の多くが不眠に悩まされます。鍼灸は不眠症に対しても古くから用いられており、睡眠の質を向上させる作用がエビデンスとして示されています。実際、鍼治療を数週間継続すると夜間のメラトニン分泌が増加し、睡眠時間や熟睡度が改善したとの研究報告があります【11】。このため、睡眠障害には松果体-視床下部のリズム調整を促す経穴や神経伝達物質に作用する経穴を選ぶ戦略がとられます。代表的には安眠(耳介後方)、百会(GV20)、神門(HT7)、三陰交(SP6)、太谿(KI3)などが挙げられます。安眠はその名の通り不眠治療の要穴で、浅い眠りや中途覚醒の改善に効果的です。三陰交は肝・脾・腎の三経交会穴でホルモンバランスを整え、太谿(腎経の原穴)は腎陰を補って心腎不交(心と腎の不調和による不眠)を正すとされています。刺鍼は軽めでよく、場合によっては置鍼(針を刺したまま一定時間留める)しつつ照明を落として患者に仮眠してもらうような形をとることもあります。耳鍼では失眠点(耳介の迷走神経領域にある不眠治療点)や、神門との併用が効果的です。これらの介入により、寝つきの向上や悪夢頻度の減少、夜間の過覚醒感の緩和が期待できます。実際に鍼灸治療を受けたPTSD患者からは「久しぶりによく眠れた」「悪夢を見る頻度が減った」との声も報告されています。
(4) 慢性的な身体症状(痛み、消化器症状)の軽減: PTSDでは精神症状のみならず、頭痛や筋肉痛、慢性疼痛、過敏性腸症候群様の消化器症状など身体的な不調を併発することも多いです。鍼灸は疼痛緩和に関して豊富なエビデンスを持ち、慢性痛の治療として確立された手法でもあります【12】。PTSD患者に限らず慢性疼痛には局所の圧痛点や経絡上の反応点に鍼をするほか、全身調整の経穴(例えば痛みの多い患者には足三里(ST36)や合谷(LI4)など気血を巡らせる経穴)を使って治療します。電気鍼を用いると鎮痛効果が増強されることが知られており、必要に応じて低周波電気刺激を鍼体間に流すことで内因性オピオイドの放出を促し、頑固な痛みを和らげます。鍼灸による鎮痛効果はメタ分析でもプラセボや通常治療に勝るとされ【12】、PTSD患者の生活の質を下げている慢性的な頭痛・腰痛・関節痛などに対して有用と考えられます。
消化器症状(食欲低下、下痢・便秘、腹部不快感など)に対しても、鍼灸は自律神経と腸管機能を調節し症状を改善します。例えば、ストレスで緊張しがちな上腹部には中脘(CV12)や天枢(ST25)といった胃腸症状の要穴を、中下腹部の違和感や便通異常には関元(CV4)や足三里(ST36)の灸や温かい刺激で腸の働きを整える方法があります。迷走神経を介した消化管運動促進効果も期待でき、PTSD患者にしばしば見られる過敏性腸のような症状(下痢と便秘の交代など)の緩和に寄与します。実際、鍼治療後に「胃腸の調子が良くなった」「食欲が戻った」といったフィードバックが得られることもあり、これは前述のようにストレス緩和による自律神経の安定化が全身臓器機能に波及するためと考えられます。
(5) 電気鍼、耳鍼、灸療法の活用: 上記のように症状に応じて基本となる経穴治療を行う際、補助的に電気鍼や耳鍼、お灸を組み合わせると効果が高まる場合があります。電気鍼は慢性痛や強い過覚醒状態に対処する際、有効な刺激量を確保し鎮静効果を増強する目的で用います。耳鍼は患者が自宅でも刺激できるよう小さな種子(王不留行など)や磁気粒を耳介のツボに貼付しておき、治療と治療の間もセルフケアできる形で活用します。特に不眠や不安に対して耳鍼の持続刺激は有用です。灸療法は冷えやエネルギー不足(気虚・陽虚)の傾向がある患者に適しており、温熱刺激によってリラックスと賦活のバランスをとります。例えば全身倦怠感や抑うつ感が強い場合、命門(GV4)や気海(CV6)に隔熱灸をすることで元気を補いつつ心を温めるアプローチが考えられます。逆にイライラが強く頭部に熱が上っているタイプには、太衝(LR3)や湧泉(KI1)に施灸し「上炎下寒」の状態を改善するなど、伝統的な陰陽バランスの観点も踏まえて調整します。これら補助療法は患者の状態や好みに応じて選択され、多面的に症状へアプローチすることで治療効果の底上げを図ります。
以上が症状別プロトコルの概要ですが、実際の臨床ではこれらを画一的に当てはめるのではなく、患者個々の症状プロフィールや全身状態、東洋医学的な証(しょう:診断)に基づいてオーダーメイドに組み立てます。重要なのは、PTSD患者の心身両面の苦痛に寄り添いながら、「過剰なものを鎮め、不足しているものを補う」鍼灸の調整機能を最大限発揮できるよう経穴処方を練ることです。
5. PTSD患者に対する鍼灸の臨床適用
鍼灸治療をPTSD患者に適用する際には、対象患者の選定や他治療との併用バランス、安全面の考慮などいくつかのポイントがあります。
患者の適応と禁忌: 基本的に、PTSD患者の多くは鍼灸治療の適応となり得ます。心身に慢性的な緊張状態を抱えているため、比較的穏やかな鍼刺激でも効果を感じやすく、拒否反応を示すケースは少ないです。ただし極度の針恐怖症や針に対する強い不安がある場合は、無理に鍼治療を行うべきではありません。そうした患者にはまず指圧やマッサージ、タッピング療法など非侵襲的手段で慣れてもらい、受け入れられれば細い鍼から試すといった段階的アプローチが望ましいです。また精神症状が著しく不安定で**現実検討能力が低下している(精神病状態に近い)患者も、鍼治療中に予期せぬ反応を示す恐れがあるため慎重を要します。急性の自殺リスクが高いケースや重篤な自己毀損行為の直後など、まず安全の確保と急性期治療が優先される状況では、鍼灸は落ち着くまで見合わせます。身体的な禁忌としては、一般的な鍼治療同様に出血素因が強い患者(抗凝固薬服用中など)**では刺激方法に配慮し、妊娠中は安定期であっても下腹部や特定の流産誘発の恐れがあるツボ(合谷、三陰交など)を避ける等の注意が必要です。しかし概して言えば、鍼灸は侵襲が小さく安全性の高い治療法であり、適切な手技で行えばPTSD患者に特有の大きな禁忌はありません。
治療期間と頻度の設定: 鍼灸治療の頻度や期間は、症状の重さや他の治療状況に合わせて柔軟に計画します。臨床研究では週1〜2回のペースで4〜12週間程度継続するプロトコルが多く採用されています【8】【9】。例えば軽〜中等度のPTSD症状であれば週1回ペースで2〜3か月行い、効果判定をします。重度の不眠や痛みがある場合は週2回の集中治療から始め、症状が落ち着いたら週1回、隔週へと漸減してゆく方法もとられます。急性期の強い不安発作などには連日治療も選択肢ですが、現実的には他の療法との兼ね合いもあり、患者が無理なく通院できる頻度で調整することが大切です。効果が安定してきたら治療間隔を延ばし、最終的にはメンテナンス目的で月1回程度受けてもらう形に移行すると、再発予防や健康管理にも役立ちます。治療効果の指標は、PTSDの症状評価尺度(例えばCAPSやPCLのスコア変化)で客観的に捉えるとともに、患者自身の主観的なストレスレベルやQOLの向上を重視します。鍼灸単独で不十分な場合は他の療法を強化し、逆に顕著な改善がみられた場合は西洋薬の漸減を主治医に相談するなど、統合的な治療計画の中で鍼灸の位置づけを調整します。
他の治療法との併用: 鍼灸は単独でも効果を発揮し得ますが、PTSD治療の主軸である心理療法や薬物療法との併用によって相乗効果を狙うことも可能です。例えば、トラウマ焦点療法(PEやEMDR)を受けている患者が、そのセッションの合間に鍼治療を受けることで心理療法の一時的な不安増大というリスクを緩和し、治療への耐性を高めるという活用法があります。たとえば、心理療法の日と鍼灸の日を交互に配置し、心の処理と体のケアをリズミカルに行うことなどです。
また薬物療法との併用では、SSRIなどで一定の効果を得つつ残る不眠や体調不良を鍼灸で補完したり、逆に鍼灸で大幅に症状が改善した場合は薬の減量を検討するなど、補完代替医療としての役割を担います。
PTSD患者に鍼灸を適用する際は安全で丁寧なアプローチを心がけることが大切です。治療環境は静かで安心できる空間を用意し、患者との信頼関係を築きながら進めます。鍼灸治療自体が患者にとって一種のリラクゼーションや「居場所」となり、治療者との対話や身体感覚への気づきを通じてセルフケア能力が高まるような、副次的な効果を期待できるような場所に、鍼灸院がなっていければと考えています。これは東洋医学で言うところの「身心一如」、すなわち心と体は切り離せない一体のものであるという考え方にも通じます。鍼灸はまさにその身心相関に働きかける療法として、PTSDという難治性の障害に対して患者を全人的に支えるツールとなり得るでしょう。
6. まとめと今後の研究課題
心的外傷後ストレス障害(PTSD)に対する鍼灸治療について、その神経生理学的な作用機序から臨床応用まで概観しました。PTSDでは自律神経の乱れ、ストレスホルモン系の異常、脳内恐怖回路の機能不全が複雑に絡み合いますが、鍼灸は全身調整作用によってこれらに包括的に働きかけ、症状緩和に寄与する可能性があります。エビデンスも徐々に蓄積されており、小規模ながらRCTやメタ分析で有効性と安全性が支持されています。鍼灸は副作用が少なく患者の受容度も比較的高いため、標準治療で十分な効果が得られないPTSD患者にとって、症状改善やQOL向上の一助となる有望な補完療法と言えるでしょう。
しかしながら、PTSDに対する鍼灸治療の位置づけを確立するには今後解決すべき課題も多く残されています。特に現時点のエビデンスは小規模研究が中心であり、プラセボ対照を含む大規模なランダム化比較試験が不足しています。介入手法(経穴や刺激法)や治療期間も研究間で不統一なため、効果の再現性を高めるには標準化されたプロトコルの確立が必要です。
まとめると、鍼灸治療はPTSDに対して神経生理学的な裏付けを持った全人的アプローチを提供しうる有望な治療法です。今後、高品質な臨床研究の蓄積とメカニズム解明の進展により、その有効性がより明確になれば、PTSD治療のガイドラインに組み込まれる可能性もあります。患者の苦痛を和らげる選択肢が一つでも増えることは大きな意義であり、鍼灸を含めた統合医療的アプローチがPTSD克服の一助となるよう、さらなる研究と臨床実践の発展が期待されます。
7. 参考文献
- Brudey C, Park J, et al. Autonomic and inflammatory consequences of posttraumatic stress disorder and the link to cardiovascular disease. Am J Physiol Regul Integr Comp Physiol. 2015;309(4):R315-R321.
- Pitman RK, Rasmusson AM, Koenen KC, et al. Biological studies of post-traumatic stress disorder. Nat Rev Neurosci. 2012;13(11):769-787.
- Karl A, Schaefer M, Malta LS, et al. A meta-analysis of structural brain abnormalities in PTSD. Neurosci Biobehav Rev. 2006;30(7):1004-1031.
- Steenkamp MM, Litz BT, Hoge CW, Marmar CR. Psychotherapy for military-related PTSD: a review of randomized clinical trials. JAMA. 2015;314(5):489-500.
- Marmar CR, Neylan TC, Schoenfeld F, et al. Pharmacologic alternatives to antidepressants in posttraumatic stress disorder: a systematic review. Prog Neuropsychopharmacol Biol Psychiatry. 2009;33(2):169-180.
- He W, Wang X, Shi H, et al. Auricular acupuncture and vagal regulation. Evid Based Complement Alternat Med. 2012;2012:786839.
- Grant S, Colaiaco B, Motala A, et al. Acupuncture for the treatment of adults with posttraumatic stress disorder: a systematic review and meta-analysis. J Trauma Dissociation. 2018;19(1):39-58.
- Hollifield M, Sinclair-Lian N, Warner TD, Hammerschlag R. Acupuncture for posttraumatic stress disorder: a randomized controlled pilot trial. J Nerv Ment Dis. 2007;195(6):504-513.
- Engel CC, Strauss JL, Thomas RW, et al. Randomized effectiveness trial of a brief course of acupuncture for posttraumatic stress disorder. Med Care. 2014;52(12 Suppl 5):S57-S64.
- Kim SH, Kwon CY, Kim ST, Han SY. Ear acupuncture for posttraumatic stress among disaster evacuees: a pilot study. Medicine (Baltimore). 2020;99(8):e19342.
- Spence DW, Kayumov L, Chen A, et al. Acupuncture increases nocturnal melatonin secretion and reduces insomnia and anxiety: a preliminary report. J Neuropsychiatry Clin Neurosci. 2004;16(1):19-28.
- Vickers AJ, Cronin AM, Maschino AC, et al. Acupuncture for chronic pain: individual patient data meta-analysis. Arch Intern Med. 2012;172(19):1444-1453.